―仙台傾聴の会として被災者支援を始めた経緯を教えてください。

震災の時、仙台傾聴の会は発足3年目になったところでした。震災に対してできることはないかと考えていたところ、宮城県医師会からの依頼があり、3月末から仙台、名取、岩沼の避難所に入って活動しました。そのときは被災した方は話を聞ける状態ではありませんでしたが、そばにいるだけで通じるものがあります。言葉ではないんですね。これは「情緒的一体感の共有」というのですが、相手の気持ちを汲んでそばにいるということを続けてきました。そのとき、ある一人の男性に失礼しますと声をかけたら、「もう少しいてください」と切実に訴えられたことがあります。心細い思いでいるときには、誰かがそばにいるということだけで安心が感じられるものだなと思いました。

避難所では余計な言葉はいりません、何も言わなくてもいいんですね。今でも印象的で思い出すのは、あるおばあさんが語られたことです。一緒に暮らしていた長男が津波に流されてしまった、お嫁さんからは一緒に生活することはできないから次男のところに行ってくれと言われた。それは現実であり、どうすることもできないけれど、それを話すことで落ち着く、他の人には言えないけれど、全く関係のない他人だからこそ話せるということがある、そんなことを感じました。

会の規模が100人にもなっていたのでいろんなところに行けました。ただ、人数が多かったとはいえ、みんな、無理をしたと思います。傾聴を学んでいてもやはり実践することは大変です。だから、一つの避難所には5、6人で行くようにしましたが、自分たちも抱え込んでしまわないように、終わったらその場で振り返りを実施して、家に持ち帰らないようにしました。それで続けてきたのです。

避難所では全国からボランティアの人が入ってきている中で、「心のケアで話を聞くボランティアはお断り」という申し入れがあったことがありました。そのとき、避難所の責任者の方のお話を聞くと、被災者の中に夜中に奇声をあげたりすることが見られ、落ち着いていないからということでした。私たちは余計なことを聞いたりはしない、よりそうだけで無理やり話を聞くということはしないと説明しました。精神的に落ち着かない状態であればなおさらもう少しやらせてほしいとお願いして、なんとか入れてもらいました。

―避難所から仮設住宅、そして復興住宅へと被災者が移り、支援のフェーズが変わっていく中でどのように活動していきましたか?

3ヶ月後から仮設住宅が完成して、みなさん、そちらに移っていきました。私たちは仮設住宅でも継続して関わりを持ち、被災者との信頼関係をつくってきました。仮設住宅では集会所があり、また建物も平家で、ちょっと外に出てくるとみんなと会えるという状況がよかったと思います。みんなの気持ちが和らいできました。仮設住宅のまとめ役の方、社会福祉協議会から派遣された方が理解をして、私たちの活動に協力してくださいました。また、私たち以外にもいろんな団体が入ってきて活動しており、それはよかったと思います。

あるところでは精神疾患をもった方がお茶のみに入れず、一人でいたので、傾聴の会のスタッフが1名つきっきりで対応したところ、だんだん参加できるようになったということもありました。保健所の方からは傾聴の会のおかげでいい状況に変わったと言われ、役に立てたなと感じました。

一方、失敗談として、傾聴の会の会員がお茶会でお菓子に「自分の幸せは自分でつくる」という相田みつをの言葉を書いたコメントをカードでつけてしまったことがありました。それを受け取った人から「なんでそんなことを言われなければならないんだ」と怒られました。人から言われるようなものではないことを、しかも言葉だけでなくメモにして渡してしまった。会員はよかれと思ってやったことなのですが、おしつけになってしまったのです。謝りに行って話を聞いてみたら、その人は大変な状況だったので、心を傷んでいる人には耐えられないことだったのです。余計な言葉、自分がよいと思っても相手に押し付けてはいけない、しかもメモで残る形なのでなおさらだったと反省し、それ以降はやめました。

復興住宅については、仮設の方がよかったと帰ってくる人がいました。同じ仮設住宅からまとまって復興住宅に移るのであればよかったのですが、そうではなかったのです。まとまって移転したところはうまくいっているという声を聞きましたが、抽選とかでバラバラになったところでは、孤立しやすい状況が生じてしまいました。

今は復興住宅の集会所で傾聴カフェをやっています。お茶会をやっているのですが、来る人は固定化してきます。お茶会に来れる人はいいのですが、それ以外の多くの人のためには、いろんな団体がいろいろやっているのがいいことだと思っています。

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