特定非営利活動法人奏海の杜(かなみのもり)は登米市を拠点に障害児・者の支援をしている団体です。東日本大震災の後、津波被害の大きかった南三陸町で活動を開始し、2013年2月にNPO法人化しました。これまでの活動と今後の展望について、代表理事の太齋京子さんに伺いました。(取材日:2020年9月15日/聞き手:布田剛、本田ふみ)

名称 特定非営利活動法人奏海の杜
所在地 宮城県登米市中田町上沼字西桜場32-1
URL https://kanaminomori.org/


行動障害のある女性と出会ったことがきっかけに

—太齋さんご自身は3月11日をどのように迎えましたか。また奏海の杜の前身の被災地障がい者センターみやぎ県北支部がどのように始まり、太齋さんはそこにどのように加わったのかを教えてください。

震災が起きた当時は、中学校で支援学級の教員補助をしていました。発達障害の子どもたちと過ごして2年目でした。高台の中学校で避難してくる人の対応をしていましたが、自分の子どもたちの安否がわからず、校長先生のお計らいで一度、帰れることになりました。そこで子どもたちに会えるのですが、おじいちゃんおばあちゃんがいるわけでもなく、主人は役場に勤めていて子どもの面倒を見てくれる人がいないので、先生に配慮していただいて、仕事は休んでそのまま子どもたちと過ごすようになりました。

子どもは津波から走って逃げるという体験をしたからか精神的に落ち着かなくなりまして、お医者さんから「できれば被災地から離れたほうがいいよ」とアドバイスがあり、実家の三重県で4月から8月まで過ごしました。子どもの様子が落ち着いてきたころ「お父さんのところに帰りたい」ということで8月に南三陸町に帰ってきました。

学校に勤めに行こうと思っていましたが、その年の教員補助の採用は終わっていたのと、子どもたちの状況が落ち着かないので3月までゆっくり過ごそうかと思っていました。そこに被災地障がい者センターみやぎ県北支部から声がかかったんです。被災地障がい者センターみやぎは仙台の障害者支援団体であるCILたすけっとの方が中心になって活動していて、最初は仙台からスタッフが南三陸に通っていました。近いところに拠点があるといいということで登米市に場所を借りて、被災地障がい者センターみやぎ県北支部は2011年6月に始まりました。当時は南三陸町内で事務所になる物件を見つけることが難しかったのです。

県北支部で働ける人を探していた担当者が「パソコン出来る人いないかな」とつぶやいたところにたまたま主人が居合わせて「うちのが家で暇にしています」と。私のバックグラウンドは何も関係なくて、ただパソコンが少し使えるというそれだけで声がかかりました。私も教員補助の採用がかかるまで半年くらいしようかな、という軽い気持ちで始めました。

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