−地域づくりの活動ということで、分野限定ではなく、必要とされていることの中で、やれることをやっていったということですね。そのような活動をしている中、震災が起きましたが、震災が起きた当初はどのような活動をしていましたか?
震災前には、宮城県沖地震の発生確率が30年以内に99パーセントと言われていましたが、明日にでも来てもおかしくないという前提のもとに、備えようという活動をやっていたんですよ。研修会もやりましたし、八雲が書いた「稲むらの火(※3)」という防災教材をわれわれは持っていたものですから。昭和11年から22年まで国定教科書に載った話なんですね。
※3…1854年の安政南海地震津波に際しての史実をもとにした物語。小泉八雲によって英語の作品が書かれ、のちに翻訳が国定国語教科書に掲載された。
その教育を徹底するために、当時紙芝居が作られていたんです。その紙芝居を平成17年に東京のNPOが復刻したんですね。そこでその団体に直接連絡して、われわれも活動に使いたいんですと言って紙芝居を手に入れました。
知ってます、「稲むらの火」って?
−初めて聞きました。
後で調べてください。これはNGOの力で世界14カ国語に翻訳されていて、それぞれの国の防災教材として使われているんですよ。日本じゃすっかり忘れられている。その紙芝居を僕らは手に入れて、読み聞かせなどやっていたんですけれども、大人数には対応できないんですよね。僕らは、地震は間もなく起こるという気持ちでやっていたから、これをDVDにして、小学校に教材として使ってもらおうとしたんです。それが平成21年でした。県内の小学校全部と、市町村の社会福祉協議会など、主だったところに無償配布したんです。そのときはWAM(※4)の助成金を取ってそれをつくりました。
※4…独立行政法人福祉医療機構の通称。
22年の6月にファクス番号がわかる学校130校くらいにアンケートを送りました。すると、返ってきたアンケートが8校だけで、DVDを見たというのがそのうち4校だけなんですよ。配っただけじゃ見てもらえないなと思って、石巻と多賀城と気仙沼で、地域の町内会単位で、防災の研修会をやったんですね。そういう流れがあって、学校になんとかそれを教材として活かすようなアプローチができないかというところに地震が起こってしまった。
3月9日にマグニチュード7の地震が起こって、そのときは津波が来なかった。僕は10日の日に水から食料から車に全部積んで備えた。そうしたら11日。僕は東仙台なので、地震の揺れだけですみました。うちの実家は(東松島市の)野蒜にあったんで、完全にやられたなと思って、姉の無事だけ心配して。その日はライフラインが止まったし、東仙台中学校に避難したんですよ。
震災直後はまずは身内の安否確認が先でした。それをやりながら、緊急支援活動のグループをつくりました。実は震災の前年に、宮城県でいろいろなNPOや市民活動団体が防災について考えましょうということを言っていたのですが、なかなか埒があかなかったので、われわれの気の合う連中だけで旗揚げしようとしていたんです。それも3月20日にキックオフの会場を押さえていたんですよ。ちっちゃな市民連合だけど、災害に備える集団を作ろうと。そこに11日の震災だったものですから、急遽それを緊急支援活動のグループにしようということで、3月20日もそのキックオフに変えて、東日本大震災復興支援市民活動ネットワーク宮城という団体を結成したんです。