−最初にそれを見た人がそこに支援に行ってしまい、マスコミに取り上げられないとなかなか誰も来ないということですか?
今だって来てないですよ。県外の人は、もう復興しているでしょと。商店街も元気なのがいっぱいできてるんでしょと。未だにテレビで映しているのはそういう元気なところ、個人でもがんばっている人ばっかりじゃないですか。最初に見た衝撃がみんな忘れられないわけですよ。大阪とか九州の人は。だから、三重の支援は、陸前高田がメインに今でもなっているわけ。それを東松島だってこうなんだということを訴えるためにわざわざ僕ら出向いていってるんですね。陸前高田を継続支援するのもいいけれど、最後1日は石巻・東松島に寄ってねと。
地域間の交流が今のわれわれの支援活動のメインになっています。1回限りの支援じゃなくて、これから10年、県外のある地域の人がこっちを訪問し、こっちの人もその地域を訪問する。今はみんな金沢に行きたいわけですよ。金沢から応援に来てくれる人たちがいるから。こっちから行くって言えば現地でセッティングしてくれるでしょう。
そういう交流が生まれるような支援を僕らは望んでいると伝えています。そういう支援の仕方があるんだと。来る人が代わっても、同じ地域から人が来れば地域間の交流は続きます。例えば、三重県の津市から婦人会の人が来たり、スポ少の人が来たり、いろんな人が来て、でも津からは来てるんだという。みんな同じ地域から来ている。これが大事だと思うんですよ。
来なくなったところは、もう私たち忘れられているって言うじゃないですか。ひびき工業団地は当初230世帯で、あの地区ではけっこう大きい仮設住宅だった。それが同じ団地の中で7つのブロックに分かれているんですよ。第一団地は100世帯あるところで、当初はそこにしか集会所がなく、支援が殺到し、毎日のように炊き出しが来ました。するとまわりの6ヶ所は、あそこはよそだからと行かないんだよね。支援がそこに集中していて、ほかのところから不満が出ていました。僕らは第三という15世帯の小さいところ、そこにやっと談話室ができたので、いろんなサロンをしたり、支援の人が来たときもすべてそこでやってます。
ところが第一のところからは誰も来ない。そんな現象が起こっているんですよ。小さな仮設住宅団地が4つくらい、下の方の国道沿いにあるんですけれど。仲のよい人は、うちがやるサロンに必ず誘い合ってくる。しかし、最初に支援が集中したところはどこの団体も今入っていないんですよ。終わったと思って。第三談話室に支援に入っている団体で今でも続いているのがうちだけなんですね。僕は一人になるまで続けると宣言していますから、まだまだ続くんですけど。格差と言うんじゃないけど、冷静に見ると支援のアンバランスが見られる。来ないところは全く来ない。
東松島市の場合は、ようやく行政による在宅者の調査が始まりました。在宅の人なんて、仮設の人と話もしないですよ。仮設の人は家賃も払わない、支援もたくさん来ている、うちなんか何一つ来ないというやっかみ。それはもう埋めようがないですよ。行政が震災の1年後に簡単でいいから聞き取りの調査でもやっていたら違かったのですけどね。あまり行政も社協も手が回らなかったのはわかりますが。