—場所としてはどういうところに連れて行ったのですか?
最初はうちの事務所です。その人はちょっと癖があって、ものを壊してしまうんですね。事務所だったら、借りているところだけれども、ものを壊されても私たちが直すからいいよと。すごかったですよ、ガラスをばーんと割ったり。彼女とは10月に出会って、やっと外に出たのは3月だったんですよ。それまでずっとお母さんも遠慮されて。でも足しげく通って、そういう草の根の活動をしていました。
仮設をまわっているうちに、障がいのあるお子さんを持った親御さんが困っているというお話をよく聞くようになりました。震災前は大家族で住んでいたりとか、地域の方が障がいのことを知っていたので、みんなが見てくれていたと。それが仮設住宅に移って、コミュニティが壊れてしまい、まったく知らない人の中に入ってしまった。そうすると、その子の面倒を見る家族の負担がとても大きくなっているとお聞きしました。
世間一般では、障がい児のための福祉サービスはけっこうあるんですね。それが南三陸町にはゼロだったんですよ。近所で見てくれたり、地域がカバーしていたからサービスが根付かなかったと聞いていますが、なかったと。でも、震災でこういう状況になってしまい、慣れない仮設住宅暮らしでただでさえいらいらするのに、自閉症の子がわーっと喋ったり、走り回ったりというのはなかなかストレスも多く、家族の負担が重くなっているんだろうなと。それで、私たちにできることはなんだろうと考えていたんですね。
被災地障がい者センターはもともと、災害で置き去りにされがちな障がい者を支援するというコンセプトだったわけで、ならば障がいのある子どもたちというのは、今南三陸町の中で、制度に乗らない置いてけぼりになっている存在ですから、私たちがやるのはここだと考えて、障がい児の支援を始めました。でも、スタッフは三人とも、最初はまったく障がい者福祉を知らなかったんです。
—どなたか特別支援学校で働いていたと聞いたのですが。
あ、私ですね。特別支援学校は去年一年間行っていたんですけれど、その前は中学校の特別支援学級の教員補助をしていました。でも地域の学校なので、障がいの程度の軽い子が多かったです。私もそのときは教員補助として接することしかできませんでした。教育として感じるのと、福祉で感じるのは全然違うんですね。
—教育と福祉では違いますか?
はい、違うようです。少しは知っているのか、私(笑)。
—私からすると専門家ですよ(笑)。障がい児の支援はどのように始まりましたか?
仮設住宅では壁が薄いので、隣の足音が聞こえるし、大きな声も出せません。寝言も聞こえるそうです。そこで、夏休みに私たちが障がいを持った子どもたちを預かって、目一杯遊ばせようということで始まったのが、今も続いている子ども広場にこま〜るです。それは2012年7月から、とりあえず夏休みの期間ということで始めました。
ものを壊すような子が今では一緒に作業もするようになって、一年半かかってすごく変わった
—場所は、最初からここの入谷公民館ですか?
最初は夏休みで時間があったので、登米の事務所に連れて行きました。朝9時に迎えに行って、10時に着くので移動に1時間くらいかかるのですが。まあ、できるかなというので始めたんです。重い自閉症の子に、なかなかどう接したらいいかわからない中で、けっこう楽しかったです。プールや公園に行ったり、暑い夏だったのでいろいろ外遊びをしました。夏休みはそういう感じで楽しく終わったんです。