被災者がだんだん在宅から仮設に入り始めて、仮設をまわるところまでやって、9月にその活動は終わりました。その活動において地元の保健や福祉の関係者の方々とミーティングをする中で、今までは避難所で被災者の顔が見えていましたが、これからどんどん仮設に入っていくと、被災者が生活に困ったときにすぐ相談できる場所がなくなってしまうので、サポートセンターのようなものが必要ではないかという話が出ました。

 じゃあ、自分たちがそういう団体をつくって、サポートセンターのようなみんながなんでも気軽に相談できるような場所にしようということで、できあがった団体が生活支援プロジェクトKだったんですね。NPOをつくるにしてもいろいろなノウハウとか、もちろん資金も必要ですし、そういうところをシェアが支援しましょうといって、プロジェクトKができあがったという経緯があります。

 シェアも緊急の支援がいつまでもできると思ってはいなかったですし、他の国においても、どちらかというと自分たちがやるというよりは地元の団体を側面的にサポートすることをやってきていました。そこで、2011年8月に住民主体の団体としてプロジェクトKが立ち上がり、プロジェクトKとシェアの協働事業という形で、ここの場所にトレーラーハウスを置いて、はしかみ交流広場という名前をつけて、みんなが相談したり、立ち寄れる場所にしました。また、ここはプロジェクトKの事務所とシェアの気仙沼事務所も兼ねています。

—シェアが気仙沼に入ったときには、他の団体が既に避難所に入っていて、在宅被災者のケアが課題だったのですね。

 在宅の方たちには情報も物資も来ていませんでした。避難所にはたくさん入っていましたが。また、在宅では当初停電の影響で床ずれの問題が大きかったようです。震災のときにエアマットとかリクライニングが上がった状態で停電して何日も過ごさなくてはいけなく、寝返りもできなくて褥瘡ができてしまった。かなり件数があったみたいですね。

 ケアが必要な在宅の方を地元の医師と看護師でまわるチームの人たちにつないだり、保健師さんをコーディネートして見てもらったりというのをやっていました。そうやって在宅の人を訪問看護とかにつなげていって、避難所に関してもだんだん仮設の方に移っていくというので、JRSが終わると同時にそういう仕事がいったん終了しました。

 私の前任者が11年の5月から12月まで常駐して、その活動をやっていました。9月にJRSが終わったのですけど、7月くらいからはここの立ち上げの仕事と並行してやっていたみたいです。シェアもJRSからプロジェクトKの支援にだんだん活動をシフトしていきました。

—在宅被災者の方がいて、保健師の方が全国からローテーションでやってくる。そこのコーディネートをシェアが担ってやっていたということですね。

 保健師の人たち、行政の人たちをNPOがコーディネートするということに対しては難しさもあったようです。もともとNPOがたくさんいる地域ではない中、訳のわからない団体がいろいろなものを持ってきて、受け入れ側のキャパもない状態で、最初は難しかったようですけれど、だんだんやっていく中で、まかせても大丈夫だと信頼を得ていったみたいですね。

—保健師さんたちもNPOに慣れてないということがあったのですね。

 兵庫など、震災を経験した自治体から来た方は全部自己完結で、準備をしてくるし、経験があって理解もあったみたいです。でも中には自分の思いが強く、自分としてやりたいことがある方も来て、そういう方に今こういうことが必要なのですと説明して、それをやってもらうことの難しさもあったようです。

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