―「復旧から復興へ、そして地域おこしへ」ということですが、最初はどんなことから始めましたか?

農家の知り合いが誰もいなかったので、知人に農家を紹介してもらうところから始めました。農家を中心とした支援をしたいと伝えると、実は困っていたのでぜひやってほしいと言われ、具体的に若林区の活動に着手していきました。

最初に行った手伝いは、30キロの米袋600袋を運ぶ作業でした。その時に来ていた農家がその様子を見て、実はビニールハウスの中がどろどろで困っているので手伝ってくれないかと話してくれました。ビニールハウスなどは重機で入れませんから、泥出しは全て人力で行わなければなりません。また、重機は細かいガレキは取り出せませんので、畑に混入しているガレキはスコップで取り除く必要があるんです。そんな根気のいる作業をやっていた矢先、6月には若林区のボランティアセンター(以下、ボラセン)が撤退するとなりました。宮城野区のボラセンと統合されていったのです。学生たちはそれが許せないわけですよね。「生活が回復していないのに、もう撤退か!」と。行政からすればはじめは緊急避難の対応しかできないので、そこが限界です。

しかし、農業支援のボランティアは、実はボラセンの立場としては禁止だったんです。なぜかというと、ひとつは行政と業者との利害関係。「業者にお願いしてガレキ撤去するから、無償でガレキ撤去しないでほしい」、つまり業者の仕事を奪わないでほしいということでした。でも僕らは重機を使いませんから全くバッティングしないんです。あとは、失業対策・雇用支援との関係です。農家が5、6人集まってガレキ撤去すれば日当を出すというものですが、5、6人が集まって畑10アールのガレキ撤去をやろうとすれば1か月はかかります。ボラセンは家屋などの生活に直結した場所のボランティアはできても農地のような商業地はできなかったのです。結局縦割り行政ですね。

若林区のボラセンが撤退してからは、自分たちで2011年7月にボランティアハウスを建て、2014年3月まで、約3年間復旧支援として、全国・世界からボランティアを招き入れ農地のガレキ撤去の活動をしていました。その数は累計約3万人にのぼりました。

―復旧から復興支援段階にはどのように移っていきましたか?

いずれガレキはなくなるわけですから、復旧段階から、復興支援段階に移っていくために必要なことを考えていました。まず2011年11月には学生たちが野菜づくりをする畑「リルーツファーム」をスタートさせました。そのころ住民はまだ仮設住宅にいるので、農家も営農再開しているところは大変少ない状態でした。そんな中で学生たちが野菜作りを始めることで、ほかのボランティアとは違うぞということが伝わるわけです。ガレキ撤去が終わってもReRootsはいなくならない、農業再生まで含めてちゃんとやる団体なのだということも示せたのではないかと思います。そして、農家の中には、学生がやっているなら、俺たちもがんばろうと勇気づけられた人もいると聞きます。

最初は「ホントにこいつら畑なんてやるのか?」「どうせしばらくしたらやらなくなるんだろう」みたいに思われていたと思います。でも失敗しながらも、農作業をちゃんとやることで、自分たちの本気が伝わり、農家の人たちとの会話の中身も変わっていきました。「今度は何を作るんだ」「このやり方ではだめだからここはこうしろ」とか。同じ生活空間の中で、地元の土を耕して野菜を生産するという中で、通じ合うものができてきたと感じます。学生は、平日朝は4時か5時に自転車で7~8キロをこいでやってきて、朝農活動をして8時には大学へ行っていました。本気で取り組む姿で、農家の見る目も変わってきたと感じます。

2013年にはひまわりプロジェクトを始めました。僕がこの地域に入ったとき、4つの課題があったんです。それは「農業再生」「コミュニティの再生」「景観再生」「防災」です。景観再生を掲げたのは、がれき撤去をしたその家のおばあちゃんとの会話です。津波で流されて一面が茶色の庭を1か所ずつ指さしながら「ここにはパンジーが植えられていた」「ここには孫が生まれたときに植えた柿の木があった」とか教えてくれるわけですよ。そして最後に言うんです。「何にもなくなっちゃった。これを見ているだけで悲しい」と。

そのとき、景観というのはその人の心象風景なんだ、これを回復しなければ人は戻ってこないと感じたんです。震災から1、2年は植木がないので、花が咲くということはないんです。だからここ一面をひまわりでいっぱいにしようと思いました。ひまわりが一面に咲いたら、壮観で人気でしたね。がんばろうという気持ちになりました。

お芋プロジェクトもやりました。被災地の農業を活かして、さつまいもの苗植え体験から収穫体験、料理まで、年間のグリーンツーリズムとして、農家を先生にして体験の場を作りました。被災地の資源を生かして人を招き入れ、コミュニティを元気にしようという取り組みですね。

コミュニティにおいて大事だったのは行事の再生です。もともとのこの地域の文化であったお祭りや運動会を再生させること。若林沿岸部の六郷東部地域の運動会は、集落対抗で2週間前から練習して勝負を競う大きな行事でした。でもバラバラなところに避難しているわけですから、まとめていくのは大変でしたね。地域の町内会や住民と一緒になって準備しました。これまで通りの集落の人数は集まりませんでしたが、運動会をやったのはとても大きな意味があることだったと思います。

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