—被災者の困りごとやニーズは、年月とともにどのように変わっていきましたか?

最初は、生活騒音とか家が狭いとか、近所の人とうまくやれないとか、そういう困りごとですよね。仮設住宅に入っている人たちは、震災前は大きな家に住んでいてそういう暮らしをしたことないわけですからね。今思い返すだけでもしんどい状況でした。

でも2年くらいすると住民が気付いてきたんですよ。諦めと言ったほうがいいのかな。隣がうるさいと話し続けてもなかなか難しいということを知って、次の悩みのフェーズに入っていくんです。経済的な問題や健康問題、介護の問題等自立再建に関する悩みなど、どんどん個別の課題が見えてきたので、支援員たちも個別の状況にどう対応すればいいのか戸惑っていたところもありましたね。個別対応には限界があるため仮設の中に自治会を作っていったのですが、その運営も厳しくなってきて、結局支援員が個別の相談のほかに自治会の相談も受けるというような状況が出てきたんですよ。だから研修内容も「自治会支援」や「地域づくり」というような内容のコマを増やしていきました。うちの事務所も2、3年各地を訪問してやっと、何を重点的に取り組んでいかなければならないのかというような全体像が見えてきました。現場は先々を見通せないなと感じたのもその頃です。客観的に見ているからこそ見えるものがあるんですよね。

そこからサポートの仕方を切り替えていきました。個別にヒアリングしていくということから、現地で実施している情報会議や被災者支援連絡会議など、現場の調整会議に積極的に足を運び、みなさんの全体の意見を調整する役割を担うことに切り替えていきました。会議の場で声の大きい人だけじゃなくてあらゆる人が発言できて、いろんな人の意見が表に出てくるような話し合い、つまりファシリテーションの手法を大切にする必要性を強く感じたんです。でもそれぞれ目の前のことに必死ですから、それを感じる余裕がないわけですよ。客観的に見るからこそわかる。とはいえ私はそもそも部外者なのでスタンスが難しいわけです。指導者でもなく、意見を調整する役割を現場からお願いされたわけでもないし、それを求められてはいないですから。

そこで、まずはとりあえずさらっと板書を引き受けてみました。ホワイトボードなどに大きく書き出したんですよね。そのうち、この人が板書をして整理することがどういうことなのかということがわかってもらえるようになってきました。一人一人の意見を大事に書き出して、「図解するとこういうことでしょうか」という風に返すと「あ、そうか。自分たちがやってきたことってこういうことか」「軌道修正が必要かも」ということに気づき、客観的に洗い出して書いて整理し問い返す人がいると便利なんだということを知ってもらえるようになってきたんです。そういうことをコツコツやっていたら、5年目くらいから「こういうことを支援事務所にお願いできるか」「各課を超えた打ち合わせの場のファシリテーターをお願いでいないか」と声をかけられるようになりました。でも、県全域でできたかと言えばそうではなく、市町によってムラはありましたね。

自分の担当を超えて横串の刺せる行政職員のバックアップを大事にした

—なぜそういうムラがあったのでしょうか?

行政の担当者によるところも大きいと思いますが、こちらの体制にも問題がありました。とにかくマンパワーが不足していましたね。人がいても、ファシリテーションの必要性を感じてある程度訓練をした人でなければあのような厳しい現場では難しいですから。「全然わかってない!」と怒鳴られることもありますからね。でもそこでへこんだら終わり。現場の人たちで意見をぶつけ合うと傷を残しますから、代わりに壁になって受け止める人がいないと誰に怒りを向けていいのかわかりません。だから、受け止める役割のファシリテーターが必要だと思いました。でも明らかにできる人が少なかったですね。

当時は朝から出かけて、1日で3市町を訪問するようなことをしていましたが、全部の市町はまわれないことがもどかしかったですね。現場に行って顔を覚えてもらわないことには信用してもらえませんから。悩んでいることや切羽つまっていることは電話では伝わりづらいですから、とにかく現場に行って傾聴しました。

2014年まではこちらからのアドバイスなどはほとんどしないつもりで行きました。だんだんと個別に話を聞いていくときもファシリテーターの意識をもって、ノートに書いて図解化したり優先順位をつけたり整理して見せると、相手も頭の中が整理できていく感じでしたね。そこで「5年、10年経った時のことを考えるとこういうことを考える必要があるんですかね~」などと、アドバイザー的要素を少しずつ入れていき、それぞれの専門の人に繋いでいきました。

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