そこに津波が来て、避難所に入ったらいろいろな支援の人が来てくれて、なんでお母さんにあざがあるのとか、お父さんはすごくお酒臭いねとか、なんで学校が再開したのに君はここにいるのとか、いろいろおせっかいに話しかけてもらって、そこで初めて自分がつらい気持ちだったことを伝えることができたと。いろいろ失ったんだけど、そういう人とのつながりができて、自分は幸せなんだということを言ってくれたんですね。

 それを聞いたときに、確かに震災があって大変な状況に置かれたというのは間違いないのですけれど、震災にかかわらずそもそもそういう状況に置かれている子どもたちがやっぱりいるんだというのを、初めて目の当たりにしたということがありました。また当時、教員をやっていた学校がかなり荒れていた学校で、3年間で生徒の3分の1が辞めていき、鉄パイプを持った卒業生がお礼参りにやってくるみたいなところだったのですけれど、そういう子たちの状況とも重なってくるところがありました。

 そこで、3か月間の活動だけじゃなくて、震災の有無にかかわらず、いろいろな事情の中で学ぶ機会を失ったり、自分の居場所を失っている子どもたちに対しての支援をやっていかなければならないんじゃないかと感じて、活動を継続することに決めました。

 活動を続けていって2年間経ったのですけれど、東京から学生を送り続けるという形は限界があるということと、お金がかかるのは単純にもったいないということ、そして、そもそもそういう機能は地域の中にあるものや、地域の中につくれなくてももっとコストのかからない形でやらなければならないということがあって、今年の4月から完全に宮城県内の若者たちだけで活動するように移行しています。今活動しているスタッフは全員宮城県内、主に(石巻)専修大の学生でやっている状況です。

同じ教室に、不登校の子とスーパーヤンキーと発達障害の子が共存

−学習支援だけではなく、居場所づくりということは最初から重視していましたか?

 最初、保護者の方からも、学習が不安だということと、子どもが何もやることがないから勉強させてほしい、勉強すること自体が癒しになるという話もあったので、そこは切り離せないと思ってやっていました。

 しかし、自分たちの活動を何と言ったらいいかというときに、学習支援という言い方のほうが、当時は入っていきやすかったということはありました。避難所に行って、居場所支援と言うとなんだそれはとなってしまうんですよね。それを学習支援と言うと、親御さんも預けやすいというのと、学校の先生の理解も得られやすく、行政受けもよかったので、そういう切り口で入っていったということはあります。ただ、活動の内実を見ていくと、勉強はもちろんですけれど、子どもの居場所という要素は最初からすごく強かったです。

−他の学習支援団体の例では、最初、避難所や行政の理解を得るのが大変だったということがあったようですが、そういうことはなかったですか?

 僕は地元民ですから、それで入りやすかったということはすごくありますね。あそこの何丁目の孫ですとか、そういう自己紹介をすると、おおー、そうかーみたいな(笑)。湊がふるさとなので、湊や渡波のあたりにずっと入っていたのですけれど、どの避難所にも知り合いや親戚がいました。そういうところで、今までやってきたことを、今ここで活かさなかったらどこで活かすんだということがありました。

−これこそ使命というべきものですよね。最初の2年間は、大きな流れとしては避難所から仮設へ移るという変化はありましたが、活動のスタイル自体は大きくは変わらなかったでしょうか?

 変化はしてないですね。ただ、来ている子たちが、最初は避難所で大変だという子たちなのですけれども、そこから落ち着くにつれて、本当に仮設で大変な思いをしている子だけが来るようになりました。避難所にいる頃は、みんな大変な状態なので、誰もが来るのですが、仮設に入ってからは本当に仮設の中でも大変な思いをしている子が来るようになっていきました。

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