今でも団体は続いて活動しています。当初、私が事務局長を担当して、5月末くらいまで引っ張ったんですけど、仮設に移る段階になったんで、僕らはそこから脱退して独自の支援に入りました。そのときは最終的には40を超える個人・団体が加盟したんですよ。それで震災当初は、宮城県の東部地区から東北部をゲリラ的にずっとそのグループでまわっていたんですね。だから、初期の3ヶ月はげんき宮城の会員あるいは縁のある人の安否確認をしながら支援物資を運び、炊き出しをし、参加する人たちのまとめをやっていました。げんき宮城としても参加していたし、私個人としても参加していた。
そのときには社協に行っても情報が取れませんでした。非常に混乱した状況の中で、大きな団体は意思決定ができない。だから、後手に回る。われわれのようなフリーの立場の人間やグループがむしろ動きやすく情報も集まってきた。課題があって、解決できないけれども、情報は共有できた。それを社協に伝えたり、行政に伝えたり、メッセンジャー的なことはずいぶんやりましたね。
ある意味、みんな得意なところを持って、団体がそれぞれのネットワークを持っているじゃないですか。そのネットワークで、例えば宮崎から5月の連休に5,000人分の宮崎牛を届けますと。5日間設定してくださいと。1日1,000食、避難所にいる人プラス在宅の人もオーケーですよという炊き出しをやったわけです。だから1,000食くらいないと足りないわけですよね。
避難者の人数は300人。普通なら300食だけ届けるが、私たちは周辺まで声を掛けました。気仙沼のときなんかすごかったですよ。僕ら50人くらい行ったんですけど、それでも足らなかった。まわりの人がみんな出てきて、持ち帰りもありましたからね。ああいう状況のときは一人一回とか規制すると来なくなる。なんでもあげた。そういう活動も一面では必要ですよね。
震災当初の課題というのはみなさんと共通で、避難所の情報すら上がってこなかった。まわるごとに、ここは足りているけどここは足りていないというアンバランスが見えてきた。足りているところでもなお不足のものがある。それはそれで指定の避難所であれば行政は把握しているし、赤十字、自衛隊も定期的に支援に入ってきていたので、僕らは自主避難している人たち、指定の避難所じゃないようなところに行っていた。
石巻は仮設に移る時期が2ヶ月後、3ヶ月後に来ました。避難所は少し落ち着いてきましたから、仮設の方をやろうと、僕らはそのグループを脱退しまして、事務局長もその時点で辞めました。そして石巻と東松島の仮設数ヶ所を定期的に支援するようになりました。
格差と言うんじゃないけど、冷静に見ると支援のアンバランスが見られる
−それはいつくらいですか?
6月からですね。7月1日に(東松島市の)小野に臨時事務所を構えて、小野のひびき工業団地とか鳴瀬の方の在宅被災者、石巻の一部の仮設を対象に支援物資を運んだり、炊き出しをしたり、いろいろなことをやりました。
震災直後もそうですけれど、当初の情報格差が支援格差につながり、今の段階でも格差が埋まらないというか、格差が拡大していますよね。その格差を僕らが埋めていかないといけないと思っていますね。
−情報格差ができる原因はどういうところになりますか?
それは行政に発信力がないことと、マスコミが目立つところだけ情報を流していることの結果です。陸前高田の町が消えたんだって、どこだって最初ニュースに流れたのはそこばっかりだったでしょ。後になってやっと気仙沼の火事がひどかった、石巻は実はひどかったんだみたいなことが流れた。