その頃、仙台市内は震災の爪痕は残りながらも街中は元通りになりつつあって、いったん落ち着いた状況でした。最初は、すでに支援活動に取り組まれている方や地元の記者、民生委員の方など現場を知っている人のところに行って、状況をお伺いするということをひたすらやっていました。何が問題になっていて、何が必要とされているかということがわからないと、何をやるというのも決められなかったので、そこをしっかり明らかにしていこうと。
119件の引っ越しで、ひとりひとりとの信頼関係を築いた
—最初は、課題は何かということを拾っていったのですね。
そうですね。その中で見えてきた課題がありました。仮設住宅ができ始めていて、避難所から仮設に少しずつ入居していくという時期だったのですけれど、そのときに避難所からなかなか移れない人がけっこういるという話をいろいろなところから聞いていたんですよ。そういう問題があるけれど、人手も足りないし、なかなかそこに取り組めないという声を聞いて、地元の学生を集めて、とにかく引っ越しの手伝いをしていこうということで支援活動が始まりました。
もともと労働相談で連携していた東京の労働組合からも協力していただけたので、トラックやドライバーを出してもらって、避難所にいる方、避難所にいても自宅に荷物が残っている方、あるいは避難所に行けずに避難所の外で、半壊や全壊の自宅で暮らしていた方の引っ越しをサポートするということをやっていました。
5月になってくると、避難所で被災者の格差が現れてきていました。避難所を出れる人は早めに出てしまって、残された人たちというのは自力で生活再建できない、仮設以外に行くところがない人たちです。僕たちが引っ越しのお手伝いした方の半数強が単身の高齢者の方でした。それ以外は、母子世帯の方が1割、障害のある方や要介護状態の方が1割くらい。その他、失業されていたり、何か困難を抱えている方が最後まで避難所に残されてしまうという状況がありました。
もともと僕らは体力を使う団体ではなく、相談活動などもしていたので、引っ越しのお手伝いをしながらこれまでどういう生活をされていたのか、今どういう問題を抱えているのか、今後についてどういう不安があるのかといったことをヒアリングしていました。
当時は、避難所から仮設に入ったら自立で、あとは自己責任でやってくださいという雰囲気があったと思うんです。そういう中でいろいろな人から話を聞いてみると、仮設に入ってからの生活に不安があるというのが見えてきました。仮設に入ったあとも継続的に支援をしていく必要があるということを確かめ、では何が必要になってくるかということをひとりひとり支援した方とかかわりながら考えていくという作業を引っ越しと同時にやってきました。
だから、引っ越し自体の意味ももちろんありましたが、僕らの場合はそこで終わらせないで、そのあとに何が必要かにつなげていくことを重視してお手伝いをさせてもらっていました。当初の活動の成果としては、119件の引っ越しを支援したという数字的なものはあるのですけれども、目に見えないところでの成果というと、119件の引っ越し分のひとりひとりとの信頼関係を築いたということがあります。そういう信頼関係を基礎として、次の事業へ展開していきました。